公団ウォーカー

日本住宅公団狭山台団地さやまだいだんち

埼玉県狭山市狭山台 公団賃貸・分譲併存 昭和50年入居開始

 賃貸住宅1843戸、分譲住宅1270戸を擁する大規模団地で、昭和50年3月に入居開始となりました。駅からバスに乗り、西武鉄道が開発した住宅地を抜けると狭山台団地が現れます。昭和50年代の団地ということで、ここも例に漏れず郊外立地にかかわらず高層高密団地です。





1-1
1-1(国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより引用)
昭和54年ごろの航空写真です。団地の中央を貫く県道はまだ団地の両端部で途切れています。団地の東側からの田園地帯は市街化調整区域で、現在も昔ながらの風景です。
1-2

この画像はスクロールできます »
1-2
ちょうどここが市街化調整区域の境界線。遠くまで畑が広がっています。



1-3
1-3
団地の中央エリアは高層の賃貸住宅です。スキップフロア型が立ち並んでいます。


1-4
1-4
中央のバス通りをまたぐ歩道橋


1-5
1-5
中層フラット


1-6
1-6
味わい深い看板


1-7
1-7
商店街の周囲を高層棟で固め、都会っぽさを演出しています。この時代の郊外団地でよく使われる手法。


1-8
1-8
このあたりは東京ガスではなく武州ガスの供給エリアです。


1-9
1-9
ゴールデンウィーク中に行ったのでお休みの店がほとんどでしたが、平日に行くと開いています。


1-10
1-10


1-11
1-11


1-12
1-12
狭山市も西武鉄道が開発した西武王国。団地と駅の間には、西武鉄道が分譲した団地や戸建て住宅が並んでいます。団地建設時の航空写真を見ると、昭和50年の時点で既に市街化が進んでいたようでした。


1-13
1-13
団地中央部から北東方向。中層棟は分譲住宅です。


1-14
1-14


1-15
1-15
テニスコートもあるんですね。


1-16
1-16
一戸あたりの間口の狭さが分かるでしょうか。この高層棟の一戸あたりの占有面積は43平米。昭和40年代初頭並みの水準に逆戻りしています。狭山台を含む昭和48年のオイルショックの時期に着手した団地は、物価高騰の影響をもろに受けてしまい、住戸の広さが狭小化する事態になってしまいました。このことは、URの団地再生事業で比較的新しい昭和50年代の団地が「集約化」の対象になってしまう理由の一つとなっています。


1-17
1-17
スキップフロア型の南面は、中層フラット住棟をそのまま2倍の高さにしたような見た目。


1-18
1-18
徒渉池


1-19
1-19
案内板は街区ごとに設置


1-20
1-20
住棟壁画がありました。


1-21
1-21
プレイロットとスキップフロア住棟


1-22
1-22
県道沿いにセブンイレブンがあり便利そうでした。


1-23
1-23
分譲エリアに入ります。


1-24
1-24
振り返ると賃貸高層棟


1-25
1-25
分譲はすべて中層フラットの階段室型です。昭和50年ごろの団地は、エレベーター付きの高層棟より、エレベーターなし中層階段室型の方がハイクラスな位置付けだったため、この団地もそのような構成になっています。


1-26
1-26


1-27
1-27
おお!美しい!絵本の世界のよう。


1-28
1-28


1-29
1-29


1-30
1-30
プレイロット


1-31
1-31
歩行者路周りの作り込みが美しい。


1-32
1-32
パーゴラがたくさん


1-33
1-33
分譲棟の妻面はタイル張りです。


1-34
1-34


1-35
1-35
ここからまた賃貸エリアです。PC工法の住棟で、伝統的な2DKと3Kの間取りです。


1-36
1-36


1-37
1-37


1-38
1-38

最後までご覧いただきありがとうございました。狭山台団地は以上です。

このページのトップへ戻る







(c) 2005 Terui Keita