公団ウォーカー

日本住宅公団ひばりが丘団地ひばりがおかだんち

東京都西東京市ひばりが丘・東京都東久留米市ひばりが丘団地 公団賃貸住宅 昭和34年入居開始
(竣工当時は「ひばり丘団地」と表記されていました)

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アイコンひばりが丘団地の解説

 総戸数2714戸。北多摩郡保谷町と田無町(現在の西東京市)・久留米町(現在の東久留米市)の3町にまたがる広大な土地に建設されたマンモス団地です。完成時点で、大阪府の香里団地、東京都日野市の多摩平団地に次ぐ3番目の規模の公団住宅でした。団地の東半分は、旧中島航空金属田無製造所の敷地の一部でした。団地は「全く独立した新しい町」であり、上下水道やガスなどのライフラインや商店街などの利便施設、テニスコートやグラウンドなど生活に必要な全てのものが団地内に整備されました。もともとこの辺りの地名(小字)は北原・西原・中原など、原のつく地域でした。戦前は、竹林のヒバリで「竹の花ひばり」と宣伝されていたこともあるひばりの名所だったそうです。団地名を決めるにあたり、田無町長を務めていた田無神社第4代宮司・賀陽賢司氏が、その在任中に日本住宅公団からの依頼を受け、団地名に「ひばりヶ丘」と名付け、今日の地名となっています。また、団地の入居開始と同年に、最寄りの「田無町駅」が団地名に合わせる形で「ひばりヶ丘駅」に改められました。団地の完成翌年には、皇太子同妃両殿下(当時)が視察に来られました。その姿が新聞や雑誌などで大々的に取り上げられたのがきっかけで、空前の団地ブームが巻き起こったのでした。首都圏整備計画の環状緑地帯に位置付けられた地域で、既存の松林は原則保存。容積率は驚異の33%でした。ひばりが丘団地は、2022年公開の映画「雨を告げる漂流団地」の鴨の宮団地のモデルになっています。





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182棟の建物が巧みに配置されています。各住棟の前につながるベージュ色の道は歩行者専用の小道となっており(車が通れるのはグレーの道だけ)、住棟の目の前まで車が乗り付けられられないようになっています。これが、ひばりが丘団地の特筆すべき景観を生み出しているのです。大部分を占める中層フラット(板状住棟)は4階建て、中央部に4棟あるスターハウスは5階建て、テラスハウスは2階建てです。


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上から見るとこんな感じです。樹木は住棟の高さより大きく成長し、団地は緑に包まれています。かつて当地は、首都圏整備計画の環状緑地帯(グリーンベルト)に位置づけられていました。団地開発にあたっては、既存の緑地を破壊するべからずということで、スターハウスやテラスハウスを巧みに配置し、美しい松林が保存されました。その後、首都圏整備計画のグリーンベルト構想が消え、団地の周辺地域はすっかり開発されてしまったのでした。


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スターハウスが団地の中央部に4棟配置されていました。北側の2棟スターハウスの周りには立派な松林があり、とてつもなく優雅な雰囲気でした。 (当時の写真は書籍「日本懐かし団地大全」の9ページ参照)


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4棟あったスターハウスのうち1棟は、取り壊し予定だったのが一転、保存されることとなり、いまも管理事務所として活躍しています。ひばりが丘団地の歴史的意義もさることながら、おそらく建て替えにあたってUR都市機構の担当者の尽力もあったのではないでしょうか。一団地愛好家として感謝してもし尽くせません。その他、テラスハウス1棟がエリアマネジメント拠点施設に、中層フラット1棟が福祉施設に改修・転用されています。


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皇太子同妃両殿下(当時)がご訪問された74号棟の跡地には、このような記念看板が建てられています。訪問先の部屋は「団地のモデル・ケース」として推薦されたの74号棟208号室の横井さん(広告会社経営)のお宅。この部屋は「団地への招待」のロケにも使われた部屋でした。当時の雑誌、週間平凡には、「六畳のアパートに日本一のお客様、皇太子ご夫婦の団地族訪問」「“イヤア今日ハ”と気易く挨拶」と当時の様子が詳細に書かれています。


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現在、ひばりが丘三丁目けやき公園がある一角には、ショッピングゾーンも設けられていました。専門店街「団地名店街」と、のちの西友である「西武ストアー」があり、かなり賑わっていたようです。往年の団地名店街は、かなり入りにくい雰囲気を醸し出していましたが、一歩足を踏み入れると味わい深い洋品店や中華料理店が営業していました。2005年?ごろ、昼食にチャーハンを食べに行ったことがありましたが、料理の煙とお客さんの紫煙で視界が真っ白の店内で、常連らしきおじいちゃん集団が酒盛りをしていたのが今でも強烈な思い出として残っています。


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前述の団地名店街の南側に隣接して、西友ひばりヶ丘店が営業していました。平屋の鉄筋コンクリート造の建物で、それほど広くなかったように記憶しています。スーパーマーケット自体がメジャーではなかった時代、ここの西友(西武ストアー)は、非常に先進的な店舗だったそうです。売ってるもののお値段はお高めで、他に代替できる店舗が周りに無かった時代は、自治会を中心とした「値下げ要求運動」なんかもあったとか。団地内商店の殿様商売が、全国の団地に生活協同組合(生協)を結成させるきっかけの一つでした。


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鉄のやぐらのような給水塔は、ひばりが丘団地のシンボル的存在でした。なお、団地内には、給水塔はもちろんのこと、公団の自家水源(井戸)&浄水施設が設置されていました。今では「あって当たり前」になった公営の上水道ですが、東京都で給水普及率が100%になったのは昭和63年のこと。ひばりが丘団地ができた時代は、水道も自前で用意しなければならないものだったのです。下水道施設も同様で、公団直営の汚水処理場が敷地の東側(現在のひばりヶ丘総合運動場ひばりアムがある場所)に設置されていました。現在の西東京市において水洗化(下水道整備)100%を達成したのは、団地ができたずっと後のことです。


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建て替え直前こそ立ち退きが進んでゴーストタウンのような見た目になっていたひばりが丘団地ですが、まだ建て替えが進んで無かった頃は、人々の活気に満ち溢れていました。花見のシーズンになると、住棟の前にシートを広げてお花見するのが楽しそうでした。


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団地内のそこかしこに桜の花が咲き乱れ、団地の外からもたくさんの人が花見に訪れました。これらの桜は、建て替え工事に伴い伐採されてしましました。


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団地からひばりヶ丘駅に通じる道路は、非常に狭いのですがバスがひっきりなしに行き交っています。団地内にバスが乗り入れることは、ひばりが丘団地の売りの一つでした。曲がり角には交通整理員が常駐しています。


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布団がぶら下がるバルコニー。開け放たれた窓。陽の光がさんさんと降り注ぎ、さわやかな風が通り抜けるひばりが丘団地は、都内の避暑地のようでした。のんびりした雰囲気の団地を散歩するのは楽しかったです。


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当時最も一般的だった2DKのお部屋です。窓を開け放つと風がよく通り抜けます。4.5畳サイズのダイニングキッチンと、2寝室(6畳+4.5畳)。すべての部屋が外に面しています。玄関とダイニングキッチンの仕切りがすりガラスなのは、玄関が暗くならないようにとの配慮です。このようにガラスで仕切る方法は公団の伝統で、昭和50年代の団地でも考え方が引き継がれています。


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テラスハウスは森につつまれた「おとぎばなしの世界」のよう。1階と2階で1住戸。つまりはメゾネットです。 専用庭がついており、団地にいながら庭付き一戸建て気分を味わえると、スターハウスをしのぐ人気っぷりでした。1階はキッチンと居間、風呂、トイレ。2階は小さな寝室が2部屋ありました。


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すっかり木が大きくなって、テラスハウスを飲み込んでいます。


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団地内はメイン道路を除き、全てこのような小道で結ばれていました。したがって、住棟の前まで自動車は横付けできなくなっています。ひばりが丘団地の特徴は、敷地全体が公園のようで、居住空間と公園の境をあえて曖昧にしているところです。子供にとっては天国のような空間だったのではないでしょうか。


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複雑に絡み合う小道。散歩が楽しいです。


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住区ごとに小さな公園が設けられています。「ここからが公園」と感じさせるような仕切りは一切なく、居住空間と公園的空間がほとんど一体化しています。


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保存林(松林)と一体化したプレイロットです。団地内でピクニックができそうですね。実際、バーベキュー大会とかもあったらしいですよ。


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南集会所です。かつて日本の田舎の伝統的コミュニティは、神社が核となっていることが多いですが、団地ではその代わりに集会所が充実しています。団地の中でコミュニティが芽生えるように、公団がどの団地にも設置しました。狙い通り、コミュニティ活動に多く使われ、一時期は予約が入りすぎて、部屋の取り合いになっていたことも。


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給水塔と団地


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テラスハウスがずらっと並ぶ風景は、今残ってる団地では見られない、独特なものでした。4階建ての住棟に比べ、専用庭がある分生活感が滲み出ています。


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夜になると、虫の音が響き、なんとも風情がありました。団地の敷地に入った時の「帰ってきた感」がすごかったのではないでしょうか。


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北側から建て替えが進んでいきました。手前の建て替え前のエリアは木々に覆われてモコモコです。


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保存され、管理事務所として利用されているスターハウスの前には、ウッドデッキと共に、74号棟208号室のベランダが置かれています。


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陛下がお立ちになられたベランダだったんですね。ひばりが丘団地は、公団にとっても特別な団地だったのでしょう。このようなメモリアル看板がたくさん建てられていますし、建て替え後の団地も他団地に比べて非常に美しい景観を誇っています。


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中層フラットの94号棟は、改修され、サービス付き高齢者向け住宅「日生オアシス」になりました。ひばりが丘団地の記憶を継承する試み、素晴らしいです!


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テラスハウス118号棟も改修され、コミュニティ施設「ひばりテラス118」に転用されています。旧ひばりが丘団地跡地のエリアマネジメントの目玉施設です。集会施設やカフェなどが入っています。ひばりが丘団地にあったスターハウス、テラスハウス、中層フラットいずれも1棟ずつ保存されていて、素晴らしすぎる!!


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ひばりテラス118に入るカフェ「COMMA,COFFEE」は、パンケーキが美味しいカフェとして非常に話題になり、土日には行列ができるほどの人気店になりました。2019年には、ドラマ「孤独のグルメ」でも紹介され、ますます注目が集まっています。

アイコン2003年のひばりが丘団地

 私がひばりが丘団地の撮影を始めたのが2003年のこと。当時は、まだ一部のエリアで建て替えが始まったばかりで、まだ団地に活気があり、商店街も元気でした。



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まだこの頃は、封がされたポストも少なく、たくさんの人が住んでいました。1階の住戸は、ドアポストに直接手紙を入れる運用になっていたので、入り口の集合ポストは2階から4階の6戸分だけです。昭和30年代の団地では多かったです。


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南入型住棟です。新規募集を停止していたものの、まだたくさんの人が住んでいます。


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スターハウス53号棟。現存するスターハウス保存棟の南側にありました。


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西友ひばりが丘団地店。まだまだ普通に営業していました。団地完成当時は、西武百貨店の分店の「西武ストアー」という名前でした。開店から4年後の昭和38年に西友ストアーに改称し、現在のスーパーマーケットチェーンになりました。スーパーマーケット自体が珍しかった時代ですから、当時の人にとってはイオンモールみたいな特別な存在だったのかもしれませんね。


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西友の店先です。


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団地名店街です。当初は広場側に店舗が並んでいました。昭和40年代初頭(?)に店舗の入り口を向かい合わせるようにもう1棟増築され、間の空間に屋根が架けられアーケード街のように改修されています。


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団地名店街の中はこんな感じ。2003年当時は、まだ多くの店が営業していました。天井から吊るされてる花飾りが昭和っぽくて懐かしいです。


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小世帯型住棟


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スターハウスもまだまだ現役。


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スターハウスを間近から見てみましょう。木製サッシの扉が連続的に設置されています。換気扇は窓に嵌め込まれています。


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このあとこの棟が保存されるなんて想像もしていませんでした。


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住宅・都市整備公団のマークが付いています。

アイコン2004年のひばりヶ丘団地



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スターハウスの周りは桜の木がたくさん植っていました。


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夏になるとスターハウスは木々に埋れていました。


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どこを見ても森のよう。


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スターハウスのダストシュート投入口


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スターハウス52号棟のドア


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いつも桜の木の日陰になっていたので、外壁に苔が生えているところがあったりしてジメジメしていました。


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躯体に痛みも目立っていました。


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入居者が以前より減ってきているようでした。



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日本懐かし団地大全




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