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多くの公団住宅は、ゆったり建てられています。桜が咲く季節には団地内の公園でシートを広げてお花見をしている人をたくさん見かけます。民間のマンションでは、建蔽率・容積率を使い切り、狭い土地に建物と駐車場が詰め込んでしまうことが多いのですが、反対に日本住宅公団が郊外に造成した団地の多くは、容積率・建蔽率を上限よりずっと低く抑えてあります。有名な「ひばりヶ丘団地」の容積率はたったの33%です。つまり100の広さの土地に1階建てで33の広さの建物を建てたのと同じということです。広い芝生や公園、グラウンド・・・人がのびのび生きるのに本当に必要なものがそろっているのが団地です。経済性が最優先される今、同じようなゆとりをもつ住宅を作ろうと思っても、それは公団(現UR)自身でさえ大変難しいと言われています。 ![]() かつて日本住宅公団は、限られた予算内で住宅を大量供給するという重要な使命を負いながらも、なけなしの予算をはたいて大量の樹木を植えました。団地を緑で埋め尽くすため、公団の職員自身がクローバーの種を撒くなど、大変な努力をされたそうです。そして今、その木々が40年近い日々を経て、とても立派に成長しました。街を見渡すと、住宅と豊かな自然が同居している場所は、実をいうと「団地」にしか残って無いことに気付くでしょう。常盤平団地や多摩平団地などでは建設時に「緑地を破壊する」と散々批判を受けたものの、団地の周りが市街化された現在では、団地だけに自然が残っているという逆転現象が起きています。最近では、団地の自然をかけがえのない財産ととらえる動きが広がっており、団地の環境が大きく見直されています。 ![]() ![]() 住棟配置とは、「住棟をどうやって並べるか」ということです。昔の公団住宅は、限られた予算の中で住宅を供給する必要があったため、標準設計という名の規格化された住棟を建設しなくてはなりませんでした。建物ごとに個性を出すことが出来なかったので「団地にいかにして命を吹き込むか」は、建物よりも住棟配置にかかっていました。昭和30年代は、まだスターハウスやテラスハウスなど、住棟自体にある程度の個性を持たせることが可能でしたが、大量供給の時代に入る昭和40年代は、板状住棟中心に団地を設計しなくてはならず、住棟配置はより重要性を増していきました 住棟配置設計において面白いと思った団地をいくつか挙げてみます。 1.高根台団地(地形を生かした谷筋の南北道路。ポイントハウスを使った見せ場の演出。) 2.米本団地(広い歩行者専用道路の先に見えるように配置されたシンボルとしての給水塔。) 3.若松二丁目団地(オートレース場と団地を仕切る城壁としての高層長大住棟。) 4.金杉台団地(住棟を斜め方向に振るため、Y字交差点中心の道路配置。) 5.市川中山(南北・東西軸の直行配置による「見せる庭」の演出。) 6.桜上水団地(NSペアを多用。) 7.草加松原団地(駅から最短距離で目的地へ到達するための2本の遊歩道。商店街を核にしたグルーピング。) 8.石神井公園団地(芝生を包み込むような雁行型住棟を取り入れた配置。) 9.辻堂団地(防風のため海に沿って一列に配置された板状住棟) 10.百草団地(歩行者専用道路を骨格とした郊外型団地のさきがけ。地形をそのまま生かした配棟。) 11.高幡台団地(円弧状に配置された板状住棟によるグルーピング。) 12.赤羽台団地(囲み配置・直行配置・ポイントハウスなど工夫の詰め合わせ。) 13.滝山団地(戸建て住宅地とつながる歩行者専用道路。) 他にも、各団地には特色があって面白いので研究してみてください。
昭和20年代の公営団地や牟礼団地などの最も古い公団住宅は、住棟のみが立ち並ぶ「集合住宅」としての機能しか持っていませんでした。しかし、土地取得の問題で周りに田園しかないような郊外に建設せざるをえなかった光ヶ丘団地(千葉県・昭和32年)から、団地はショッピングセンターや診療所、公共施設などを敷地内に抱えた、一つの「街」としての機能を持ち始めました。この光ヶ丘団地は、当時交通の便が極めて悪く、街として成立するかが非常に心配され、公団職員がビラまきに駆り出されるほどだったそうですが、いざ蓋を開けてみれば20倍を越える応募倍率で、入居者の評価も上々。その後ひばりヶ丘団地や草加松原団地などの郊外マンモス団地の建設が加速されました。 街としての機能を持った大規模団地として挙げられるのが ・ひばりヶ丘団地(西東京市・東久留米市) ・武里団地(春日部市) ・町田山崎団地(町田市) ・若松二丁目団地(船橋市) ・豊四季台団地(柏市) 残念ながらシャッター街と化した商店街も見受けられます。復活に期待したいです。 ![]() 散歩するのに丁度良い小道が張り巡らされた団地。庭園みたいで普通の道路にはない落ち着いた空間が出来上がっています。「車が入って来れないだけで、これだけ雰囲気が変わるものか」と関心します。車がまだ一般家庭に普及していなかった昭和30年代では、歩行者向けの車が入って来れない小道を中心に設計された団地が数多くありました。下図のひばりヶ丘団地や高根台団地などは、下図に示すとおり骨格となる広い道路に囲まれた部分が、全て歩行者専用の小道でカバーされています。車がかなり普及した現在では歓迎されない設計ですが、逆にそのおかげで居心地のいい空間を作り出しています。空間の境界が今より曖昧で、自由度の高い使い方が許されるため、団地の周囲はさながら共有の庭のようでした。 ![]() (注:代表的な例を挙げましたが、当然全てがこのような設計だったというわけではなく、牟礼や野方、原宿や、関西地方の各団地のように歩行者道路と車道の区別がほとんど無いところや、昭和40年代に流行るラドバーン方式を先取りしたような団地もありました。) 時代は過ぎ、昭和40年代に突入すると、今までの「車不在型」から、車の存在を考慮した「歩車分離型」へと移行し、歩行者の動線と車の動線が極力交差しないよう背骨のように歩行車用の道が団地中央部を南北に貫く設計が流行り始め、百草団地や米本団地のような名作が続々と生まれていきました。下の図を見て分かるとおり、車が通れる道が、歩行者道と交差しないように、どの住棟前にも満遍なく張り巡らされるようになっています。昭和30年代の上図の団地と見比べてみてください。 ![]() 無駄をばっさり切り落とした可愛いくてシンプルなデザイン。画一化の象徴なんていわれた団地も今の視点で見れば逆に「新しい」と感じます。団地は「集合住宅の無印良品」と言っていいかもしれません。 前述の通り公団は限られた予算で大量供給という使命を負っており、一つ一つの建物に無駄な飾りたてをする余裕はありませんでした。部品も全て規格化され「KJ型流し(公共住宅型)」なる流し台や、「公団ホワイト」という白いペンキなど公団スタンダードが続々と誕生しています。公団は、20年近く細かい改良を重ねつつも似たようなデザインの建物を作り続けます。しかし日本住宅公団が住宅・都市整備公団に変わったあたりから今までの団地のイメージを払拭するように団地が急に「マンション」っぽくなっていきました。これは住宅の供給が一段落した時期で、量より質を気にする時代に突入したわけです。 ![]() ![]() ダストシュート ポイントハウス 焼却炉 ぼんてん入れ 居住者一覧表入れ 公団型ポスト スチールサッシ 木製サッシ 給水塔 ジントギ製遊具 ![]() 国会図書館や大学の図書館で調べたことを書きました。拙い私の知識の範囲で書きましたので、間違いなどがあるかもしれません。細かい指摘も大歓迎ですのでお気づきの点がありましたら連絡ください。 |