公団ウォーカー

団地の魅力

「日本は美しい国です。今、日本は急に移り変わりつつあります。私たちのまちを美しい国土にふさわしい新しい日本人のふるさとにすること、それを私たちは念頭にしているのです。」
 これは、日本住宅公団(現在のUR都市機構)5周年を記念して作成された冊子「生まれくる住宅と都市」に記された、設計課長本城和彦まさひこ氏の言葉です。その言葉のとおり、今や団地は多くの日本人にとって心のふるさとになりました。懐かしいけどどこか新鮮な団地。そこにはいったいどんな秘密が隠されているのでしょうか。


アイコン団地特有のゆとり

習志野台団地 神代団地2 常盤平団地 神代団地1
 多くの団地は、広い敷地の中にゆとりをもって建物が建てられています。桜が咲く季節にはシートを広げてお花見をしている人をたくさん見かけます。その風景は、まるで公園のようです。民間のマンションでは、建蔽率・容積率を使い切り、狭い土地に建物と駐車場が詰め込めるだけ詰め込むのが定石となっていますが、日本住宅公団が郊外に造成した団地の多くでは、相当な余裕※を持って建てられています。広い芝生や公園、グラウンド・・・人がのびのび生きるのに本当に必要なものがそろっているのが団地です。まとまった土地が無く、経済性が最優先される現在では、同じようなゆとりをもった住宅地を作ることはほぼ不可能に近く、民間事業者はもちろん、UR自身ですら困難と言われています。
※ご参考までに…
建替前の「ひばりヶ丘団地」の容積率は33%、私が住む神代団地では容積率51.4%(新築当時)です。建替前の多摩ニュータウン諏訪団地では、容積率50%、建蔽率は驚異の10%でした。一般的な中高層マンションが200%、戸建て住宅でも80%台が多いですから、それと比べると相当な余裕があることが分かります。


アイコン団地の豊かなみどり

ひばりヶ丘団地新築時 ひばりヶ丘団地50年経過後
 1枚目の写真は「ひばりヶ丘団地」の新築時の空撮。2枚目は、50年経過後の写真です。団地が森にようになっていますね。
 かつて日本住宅公団は、限られた予算内で住宅を大量供給するという重要な使命を負いながらも、なけなしの予算をはたいて大量の樹木を植えました。団地を緑で埋め尽くすため、公団の職員自身がクローバーの種を撒くなど、大変な努力をされたそうです。そして今、その木々が50年以上の月日を経て、とても立派に成長しました。街を見渡すと、住宅と豊かな自然が同居している場所は「団地」にしか残って無いことに気が付くでしょう。各地で団地が建設されていった時代は、団地開発が自然破壊であるかのような批判を受けたこともありました。ところがスプロール化で、どこもかしこも市街化されてしまった現在では「団地だけに自然が残っている」という逆転現象が起きています。まとまった緑地帯が街中からすっかり姿を消してしまった今、団地の緑は地域の財産と言っても過言ではありません。


アイコン人間本位の街並み

阿佐ヶ谷住宅 百草団地 大谷田一丁目団地 夏見台団地
 団地は基本的に車と歩行者の動線が重ならないよう設計されています。多くの団地では、散歩するのに丁度良い小道が張り巡らされており、お散歩がとても楽しいのです。「車が入って来れないだけで、これだけ雰囲気が変わるものか」と関心します。事故の危険が無い団地敷地内は、子供達にとっても天国。公団では、老若男女誰に対しても優しいまちづくりが行われてきました。バラバラに造成されていく一般的な住宅地では、このようなまちづくりは難しいでしょう。人間スケールで作られた街並みは、団地固有のものなのです。


アイコンひとつの街としての団地

洋光台中央団地 けやき台団地 東久留米団地 高島平団地
 昭和20年代の公営団地や牟礼団地などの最も古い公団住宅は、住棟のみが立ち並ぶ「集合住宅」としての機能しか持っていませんでした。しかし、土地取得の問題で周りに田園しかないような郊外に建設せざるをえなかった光ヶ丘団地(千葉県・昭和32年)から、団地はショッピングセンターや診療所、公共施設などを敷地内に抱えた、一つの「街」としての機能を持ち始めました。この光ヶ丘団地は、当時交通の便が極めて悪く、街として成立するかが非常に心配され、公団職員が東京駅等でビラまきに駆り出されるほどだったそうですが、いざ蓋を開けてみれば20倍を越える応募倍率で、入居者の評価も上々。その後ひばりヶ丘団地や草加松原団地などの郊外マンモス団地の建設が加速されました。
 昭和30年代といえば、およそ現在の環八通り外側あたりからは果てしない田園風景が広がり、道路はおろか上下水道やガスも完備されていませんでした。昭和30年代の所沢市がモデルになっている映画「となりのトトロ」を見ると、当時の井戸やかまどを使用した庶民の暮らしぶりがイメージしやすいでしょう。団地の多くは、そのような未開の地に造成されていったわけで、上下水道・ガス・電気はもちろん、生活に必要な商業施設、小中学校、バス路線など公団自身で整備せざるをえませんでした。映画「団地への招待」(昭和34年・日経映画社)では「団地は独立した全く新しい街」と紹介されています。


アイコン極めて合理化された建物

ひばりヶ丘団地 55-4N-2DK室内写真 55-4N-2DK間取り図 団地立面図
 無駄をばっさり切り落とした素朴でシンプルなデザイン。画一化の象徴なんていわれた団地も今の視点で見れば逆に新鮮に見えます。団地は「集合住宅の無印良品」と言っていいかもしれません。部屋は現在の水準からすればやや狭いものの、建築当時最新鋭を誇った設備は現在においても全く通用するものです。
 日本住宅公団の使命は、良質な住宅をとにかく大量供給することで、国からは毎年数万戸建設という厳しいノルマまで課せられていました。ノルマを達成するためにも、建物を1棟1棟別個に設計していては効率が悪く、工業製品のように建物の設計を標準化(規格化)する必要がありました。部品も全て規格化され「KJ型流し(公共住宅型)」なる流し台や、「公団ホワイト」という白いペンキなど公団スタンダードが続々と誕生しています。東京都調布市内には「量産研究所」なる施設まで建設され、日々団地の改良が重ねられていったそうです。こうして公団は、住宅不足が一区切りつく昭和50年代中頃まで、四角いシンプルな「団地」を作り続けていきました。


アイコン巧みな住棟配置

 住棟配置(配棟)とは、「住棟をどうやって並べるか」ということです。前述の通り、公団は限られた予算の中で住宅を供給する必要があったため、標準設計という名の規格化された住棟を建設しなくてはなりませんでした。したがって「団地にいかにして命を吹き込むか」は、建物よりも住棟配置にかかっていました。昭和30年代は、まだスターハウスやテラスハウスなど、住棟自体にある程度の個性を持たせる余地がありましたが、大量供給の時代に入る昭和40年代は、板状住棟中心に団地を設計しなくてはならず、住棟配置はより重要性を増していきました。団地をよく見ると、単に建物を並行に並べたものは意外と少なく、同じ配置の団地は存在しません。いくつかの例を見てみましょう。
神代団地 百草団地 市川中山団地 西上尾第二団地 桜上水団地 草加松原団地 高根台団地 上野台団地 米本団地 石神井公園団地

アイコン味わい深い団地エレメンツ

 団地の敷地内を歩いていると、団地でしか見かけない、団地特有の設備やアイテムが見られます。
今でも活躍しているものもあれば、役目を終えたものまで種類は様々。団地エレメンツを意識しながら団地を散歩してみるととても楽しいですよ。
給水塔

モザイクタイルアート

コンクリート製遊具

住棟番号

丸住マーク

ダストシュート

焼却炉と煙突

木製建具

アイコン団地と人々

神代団地と子供 神代団地の盆踊り大会 光が丘団地の夜景 常盤平団地
 広い団地の中では、様々な人間模様が展開されています。子供たちの遊ぶ楽しそうな光景。丸くなって立ち話をするおばちゃん。布団がビッシリ干されているベランダ。それぞれの灯りの色が並ぶ窓。人々がそこに住んでいるからこそ、団地は魅力的なのです。特に、夏祭りや餅つき大会など、イベントの時にこそ団地に行ってみましょう。団地の楽しい一面が垣間見れるはずです。
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